暑い。とにかく暑いですね。梅雨明け宣言すらまだなされていないというのに、世界は一体どうなってしまったのでしょうか。日光による直接のダメージだけでなく、高い湿度によるムシムシ状態も合わさってきて、夏本番前にしてダウン寸前です。連日屋外での労働に勤しんでいるせいで、頭が溶けるような感覚にも襲われています。もうすでに人が屋外で活動していい水準を超えてるだろ!と空に向かって叫びながら、汗ダラダラで身体を酷使する毎日です。とはいえ、労働自体はある程度楽しかったりするので苦労しているといった感じではあまりないですが(できるならばしたくはないけれど)、とにかく暑くて生命の危機を感じてるっていうのと必然的に読書に割ける時間が減ってしまうというのが悩みの種ではありますね。毎日働かれている全ての人に尊敬の念を抱かざるをえないです。みなさん、ホントにすごい。
とまぁ、そういう話は置いといて(とはいえ、今回はそういう類のどうでもいい蛇足話ばかりしている記事なんですがね笑)久々のブログ記事投稿になるわけですが、唐突に、何となく僕がここのところ楽しみに待っている近刊書籍のご紹介でもさせていただこうかなと思い、言葉を認めることにしました。別に、何か他のことを書くネタがないわけではないのですが、専らその気力がないので、今回はいつもと違った趣の記事でも書いてみるかといった次第です。
今のところ楽しみにしている近刊書籍が2冊ありまして、一冊がハンナ・アーレントの『真理と政治/政治における嘘』(みすず書房)で、もう一冊が大脇幸志郎さんの『なぜEBMは神格化されたのか』(ライフサイエンス出版)です。
アーレントの重要論文二篇を新訳で収録。私は渾身の長文解説を寄せました。まもなく発売。
— KoichiroKOKUBUN國分功一郎 (@lethal_notion) 2024年7月1日
ハンナ・アーレント『真理と政治/政治における嘘』(みすず書房) https://t.co/7cGbtfoGUV
ついに予約開始。新刊は9月10日発売です。
— 大脇幸志郎 (@0waki) 2024年7月9日
なぜEBMは神格化されたのか 誰も教えなかったエビデンスに基づく医学の歴史(ライフサイエンス出版)https://t.co/oeUsbXRGvv
どうでもいい僕の購入予定としては、前者が7/12に出版される予定なので、近々書店に買いに出かけようと思ってるのと、後者は既にAmazonの方で予約済みなので、おそらく9/13前後には我が家に届くのではないかといった感じです。非常に楽しみ。
まずは前者の書籍についてのワクワクを述べていきたいと思いますが、『真理と政治/政治における嘘』に収録されるアーレントの二論文は既に邦訳があるもので、「真理と政治」はみすず書房さんより刊行されている『過去と未来の間』に収録されていて、もう一方の「政治における嘘」も、同じくみすず書房さんの『暴力について』に収録されているようです。このニ冊を買った方が他の論考も読めてお得なんじゃないかって気も若干しないではないですが、特に関心があるのがこの二論文だということ、國分功一朗さんが長文解説を寄せているということを理由に、近刊の方で読むことを決めました。
個人的には「真理と政治」という言葉を見ると、昨年の今頃(2023/7/13)に出版された市田フーコー論が想起されます。その書籍には「真理の政治史へ」という副題が付されており、今回のアーレントの論考とは趣が異なるかもしれませんが、まさに「真理と政治」の関係という地平を表有しているのではないかという気がしていて、とても興味がそそられます。ちなみに、市田のフーコー論は積読していて、まだ読めていません。早めに読みたいところではありますが…。
【本日発売】ミシェル・フーコーとは何者なのか。常に変化した思想家の変わらぬ核心には、真理をめぐる〈哲学〉が存在しました。異色のフーコー論にして現代思想の到達点。
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) 2023年7月13日
市田良彦『フーコーの〈哲学〉──真理の政治史へ』☞ https://t.co/5Hnr2iDV5Mpic.twitter.com/4pYWaWmrzz
そういえば最近、ジャン=リュック・ナンシーの『嘘の真理』という本が講談社メチエに仲間入りしましたね。
ジャン゠リュック・ナンシー『嘘の真理』講談社選書メチエ le livre、訳者見本が到着しました。来週には書店に並ぶはずですので、大人の方も子どもに戻った気分でお手にとってみてください。 pic.twitter.com/PFJc8IMu1B
— 𝑅𝑦𝑜𝑠𝑢𝑘𝑒 𝐾𝑎𝑘𝑖𝑛𝑎𝑚𝑖 (@ryosukekakinami) 2024年5月10日
こういうものが注目され始めてるのか、あるいは僕のアンテナがこういうものに敏感になっているだけなのか、真相のほどについては分かりませんが、読みたい本が続々と登場してくるというのは実に贅沢なことだと改めて感じます。真理と政治の関係、真理の政治的利用、あるいは真理それ自体の政治性、真理と嘘のゲーム、なんてことを朧げながら考えてしまいます。今日、なぜかTwitterの「おすすめ」欄に表示された10年近く前の永井均さんのツイートも示唆的です。
「というのは」の後を、「今まで嘘が真理と呼ばれてきたが、これからも嘘を真理と呼び続けねばならないからだ。しかし今度は嘘であると知りながら。」と続けたとしたら、どうだろうか。 https://t.co/SGnh8QZHSe
— 永井均『「純粋理性批判」を立て直す-カントの誤診1』絶賛発売中! (@hitoshinagai1) 2017年3月13日
こうなってくると虚構(フィクション)とは何であるのか、そういう疑問も出てきますね。
あと、こういう文脈で面白かったのは松村さんによるエビデンス論、つまり『エビデンスの社会学』です。
「証拠=エビデンス」なるものの概念史を通じて、その意味に肉薄していく試みにはワクワクさせられました。こういう文脈だと、どうしても社会構成主義的な相対主義に陥りがちですが、そうではない文脈が模索されているのも興味深いです。また、ギリスピーの『客観性の刃』やダストンとギャリソンの『客観性』、ポーターの『数値と客観性』、ハッキングの『確率の出現』『偶然を飼いならす』、フランクリンの『蓋然性の探求』、クロスビーの『数量化革命』なども、この文脈では得るところの多い書籍かなと思います。多くを紹介しすぎましたね…まぁ、たまにはこういうのも良しってことにしておきましょう。
僕の関心は専ら痛み論の文脈で生じてくるわけですが、上記の書籍についても同様です。あとはアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』なんかもこの文脈に引き付けて読んでみたいなと思っていますが、それは特記すればというほどの意味で、基本的に僕の読書体験はここに収斂していっていますから、関係のないものはあまりない感じです。それを「語ること」の困難さを日々痛感していますが。
僕は基本的に、客観的で中立的な事実なるものに懐疑的で、だからといって相対主義に与するわけでもなくといったよく分からない立場をとっているわけですが、例えばヴェーバーやニーチェの言葉などに影響を受けたりはしています。例えば、次のような言葉。「あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、与えられた実在が、ある特定の意味での主観的な、ということはつまり、我々の認識の前提をなし、経験的知識のみがわれわれに与えることのできる真理の価値〔への信仰〕と結びついた諸範疇〔カテゴリー〕に準拠して、秩序づけられるということ、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている。こうした真理の価値を認めない人に対しては——じっさい、科学的真理の価値への信仰は、特定の文化の所産であって、自然に与えられるものではないーー、われわれは、われわれの科学の手段をもってしては、なにものをも提供することができない。かれが、科学とは別の真理を求め、科学のみが寄与できる事柄につき、そうした真理をもって科学に代えようとしても、それはもとより無駄であろう。科学のみが寄与できる事柄とは、経験的実在〔そのもの〕でもなければ、経験的実在の模写でもなく、ただ経験的実在を思考により妥当な仕方で秩序づける、概念と判断である」(1)。
今回の記事では、こういった込み入った話をする気はあまりないので、この辺にしておきましょう。また脱線する可能性はありますが。
もう一冊の楽しみにしている近刊書籍も「エビデンス」に関するもので、こちらはむしろその成立史な側面にフォーカスして描かれている(おそらく)ものです。それは上記にもある通り、大脇さんによる『なぜEBMは神格化されたのか』で、僕がなぜこの書籍に注目しているのかというと、端的に類書がないという点が挙げられます。これは大脇さん自身も述べておられますが、おそらくEBMの歴史について詳細に書かれた本は20年前の研究書一冊(おそらく Jeanne Daly による Evidence-based medicine and the search for a science of clinical care ぐらい)で、日本語に関しては初だろうと思います。あとは、大脇さんの動画を見て興味が湧いたというのも理由としてあります。
(動画を拝見させてもらった)現時点での認識としては、彼の主張の一部には同意するものの批判的な部分もあるというのが個人的な意見ですが、その点に関しては本書を読んだ後にゆっくり考えてみたいと思います。あとは、十九世紀における公衆衛生改革の人物たちに、目次上ではチャドウィックが含まれていないこと、つまりEBM運動に関連する文脈にベンサムに始まる功利主義哲学の影響は考察されてなさそうだという点が気になっていますが、このあたりも読んで確認してみたいと思っています。個人的には、この文脈は重要な気がしていますが、あまり他のEBM論でも触れられていないのはなぜだろうかと疑問です。
EBMなるものが医学的な常識とみなされ、多くの人が「エビデンス!エビデンス!」と声高に口走ったり、あるいはそのようなエビデンス一辺倒な言説に対して「私こそが正当なEBMの理解者だ」と言わんばかりに強弁しているような人たちにこそ、一度歩みを止めてこういう本に目を通してもらいたいなと思います(その両者は、まさに過去の自分であり、そういう過去の自分に向けて言っているわけですが…)。科学主義者と科学否定論者の対立が煽られる現代で(最近、『エビデンスを嫌う人たち』という書籍が刊行されましたが、この事態は示唆的です)、そのどちらでもない道を模索するのは無駄なことではないでしょう。その一助になってくれるのが本書ではないかと期待しています。
本書に関して、値段設定が高い(¥5,720-)という理由で悩まれている方が少しばかり見受けられました。まぁ、購入するかどうかは個人の自由なので、買った方がいいみたいに強要する気はさらさらありませんが、大脇さんが述べているように「文献1000件、用語解説など含めて640ページ、束4.5cmというゴツい本」に対して払う対価としては、妥当な値段のように僕には感じられました。僕の、本に対する欲望が、金銭感覚の狂いを生じさせているのか…。そういうことにも気が付きました笑
とまぁ、こんな感じで気になる近刊書籍についてベラベラと話をして、そこから連想されるものに気の向くままに話を派生させていったわけですが、こんなことに需要あるのか?と疑問に思いつつ、今回の記事はここまでにしたいと思います。お付き合いいただき、ありがとうございました。
References
(1)マックス・ヴェーバー著, 富永・立野訳, 折原補訳. (1998) 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』, 岩波書店, 157-8頁.